「NHK仙台放送局60年のあゆみ」を読みにいく

そういうわけで、私が頼みの綱にしていた「NHK仙台放送局60年のあゆみ」なのですが、本日宮城県図書館に行きまして手に取ってみますと、薄いブックレットで単なる60年間の年表でした。私の記憶と違う。
表紙は『原町放送所(昭和32年)』、両脇に高い大きな塔がありたぶん真ん中の細長いポールとの間に線が通っている(白黒なこともあって見にくいので私の勘違いである可能性もあります)、そして真下に建物が建っている、そんな写真。その建物の拡大写真は無いので正面玄関がどんな感じなのかは分かりません。表紙をめくると『仙台放送局 旧局舎(昭和31年)』『仙台放送会館(昭和63年)』という2枚の写真が上下に並んでいます。
余談ですが、NHKは送信所のことを放送所と称します。ラジオは原町ラジオ放送所、テレビは大年寺山テレビ放送所。それを他の書物が引き写すときに誤って放送局と書いてしまえば、原町に仙台放送局完成、という誤解になるかもしれません。これは推測の域を出ません。
本文は単なる年表ですから昭和36年仙台放送会館ができるまでのいきさつはさっぱり分かりません。単に『7.25 仙台放送会館落成』です。旧局舎の一部を残したという“名無し”さんの情報は別の情報源を探してこなければウラが取れません。これが私の今後への課題となります。
それでも私の興味の範囲内でいくつか書き写してきたので紹介します。

仙台放送局の位置

これで、仙台放送局が90年前から仙台市北一番丁32にあったことは確定です。
ところで北一番丁ってどこ? 前の仙台放送会館の北側の通りですね。正面玄関は西側の愛宕上杉通を向いています。
これを昔の地図で見るとどうなるか。北一番丁通と上杉山通の角にNHKと書いてあればよいわけですが…結論から言うと上杉山通の角にはありません。古い仙台の地図を集めた本を探したら、上杉山通のひとつ東側の通り、同心町通*1の角に「放送局」があります。今の感覚で言うと正面玄関の裏側です。もしかすると当時の正面玄関は東もしくは北を向いていたのかもしれません。そもそも当時愛宕上杉通はありません。上杉山通と東五番丁はくっついておらず、銀杏坂もありません。
外記丁通(県庁や仙台合同庁舎の東側の通り)、長刀丁(なぎなたちょう:県庁前の通りの外記丁通より東側部分)、同心町通、北一番丁で囲われたブロックが宮城師範学校の敷地だったのです。宮城師範学校が北七番丁、現在の宮教大附属中のところに移転すると、青葉荘という分譲地になったようです。何故かヤフオク(?)のオークションサイトにそのことが分かるハガキが売られていました。このページがいつまで残るのか分からないけどリンクしておきます。
http://buyee.jp/item/yahoo/auction/l443580863
このはがきに書かれているデベロッパー、仙臺信託という会社は斎藤報恩会が作った会社のようです。
NHK仙台放送局60年のあゆみ」の中に戦前の何かの年鑑的な書物のコピーのようなものが載っているのですが、住所として『仙台市北一番丁32青葉荘』と書かれています。なお、このとき周波数と出力は770kc/10kW。第二放送は戦後の開局なので載っているのは第一放送のみとなります。

戦後のこと

  • 昭和20年9.16 米軍、仙台と松島に駐留
  • 〃  9.23 進駐軍放送のための施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始
  • 〃  9.26 第2放送開始(500W)
  • 昭和22年3.18 仙台放送局第2放送増力(500Wから10kWに)
  • 〃 10.29 東京−仙台間、仙台−札幌間など、第2放送中継線新設(〜23年2月)
  • 昭和30年3.1 気仙沼放送局開局(R1運用開始、50W)
  • 昭和33年4.1 気仙沼放送局第2放送開始

進駐軍放送については書かれていないので分かりません。ただ、こんなサイトがありまして
敗戦前後のNHK放送の周波数変更
そちらの調べでは

  • 仙台1 JOHK:770kc、10kW
  • 仙台2 JOHK:1140kc、0.5kW→10kW
  • 仙台3 WLKE:1370kc、3kW

とありました。第1と第2が同一コールサインなのが気になりますが、Wikipediaによると第2のコールサインがJOなんとかBとなったのは1948年7月だったようです。それはさておき、仙台3とあるのが「AFRS進駐軍放送」で、1952年3月にFENと改称された後ぐらいのどこかで1370KC→1450KCに変更されたようです。仙台のFENの歴史は調べても朝塩さんが提示されたリンク先の内容以上のものが出てこないのでこれ以上調べないつもりです。

テレビ放送開始から仙台放送会館落成まで

  • 昭和29年9.13 仙台市でのテレビ契約第1号誕生(※個人名が載っているのですが書き写しませんでした)
  • 昭和30年10.26 国見の無線中継所完成(※午線中継所と印刷されているのだけどたぶん誤植だと思う)
    • (東京からTV中継可能となる)
  • 昭和31年1.17 東京−仙台間マイクロ回線開通
  • 〃 3.21 大年寺山放送所運用開始
  • 〃 3.22 仙台放送局テレビ放送開始(5kW)
  • 昭和34年4.26 大年寺山放送所にフィルム送像装置完成
  • 〃 5.1 テレビ「ローカルニュース」放送開始 放送所から送出
  • 昭和35年2.1 臨時テレビ主調完成し演放分離となる
    • (フィルム送像装置を大年寺山放送所より演奏所に移設しニュース送出が演奏所から可能となった)
  • 昭和35年11.27 仙台放送局総合テレビ増力(5kWから10kW)
  • 〃  12.1 仙台放送局教育テレビ放送開始(10kW)
  • 昭和36年7.25 仙台放送会館落成
  • 〃  9.1 会館の放送設備運用開始
  • 昭和37年4.1 鳴子テレビ中継局開所(サテ局の初め、総合のみ、教育は8.1開局)
  • 〃  9.1 気仙沼テレビ中継局開所(長森山 総合、教育)

放送局(演奏所)からVTRを送るのではなく、撮影したフィルムを映像信号に変換する機械を送信所に設置して東京に送り出していたのですね。カメラマンさんはニュース映像をフィルム撮影したら大年寺山に上っていたということになりますか。
仙台放送会館落成までのいきさつが年表からはさっぱり分かりません。ただ、ラジオだけでなくテレビもやることでテレビ用の設備が入った建物を建てる必要があることは分かります。臨時テレビ主調完成という項目があるので、たぶん旧局舎にテレビの主調整室をつくって放送会館ができるまで使用した、放送会館の使用を開始したあと臨時主調整室のあった場所は別の用途に転用した。そう考えれば北一番町通り沿いの“一部が旧会館”ですという“名無し”さんの書き込み『一部残った旧会館にはTV放送開始時に運行室があったので、残った』と符合します。

発足当時の理事たち

NHK仙台放送局ができた当時、仙台放送局のお偉いさんはどんな人たちだったかということも書いてあったので、どんな人なのか調べてみました。でもググっても分からない人もいました。
昭和3年

  • 理事長
    • 佐久間俊一 ググっても分からない。だだし、「渋沢社史データベース」というサイトの「(株)七十七銀行七十七銀行小史』(1954.05)」によると、昭和7年1月に現在の七十七銀行ができたときの取締役に名がある。
  • 理事
    • 伊澤平左衛門 ボウリングやスケートでおなじみ勝山酒造の当主で宮城の実業家。この時期はまだボウリング場もスケート場も無いか。昭和7年に現行の七十七銀行となったときの頭取。仙台市出身。
    • 福島禎蔵 東洋刃物や当時あった東洋醸造(フジビール。キリンに合併される)の創業に関わった宮城の実業家。今年12月に休館する民間美術館「福島美術館」のコレクションを集めた人。仙台市出身。
    • 金田一国士 花巻温泉を建設したり当時の盛岡銀行の頭取を務めた岩手の実業家。青森県生まれ。
    • 小林富吉 ググっても分からない。「現行官有地ニ関スル規則類纂」(明治26年12月)という書物の編者という人の名と同じなのだけど同じ人だろうか。だとしたら福島県の人。
    • 三浦権四郎 山形銀行の前身、両羽銀行の頭取。山形市出身。
  • 専務理事
    • 佐藤吾一(局長兼務) 逓信省の官僚だった人、退官して理事に就く。山形県出身。
  • 監事
    • 一力次郎 当時は河北新報の副社長、のちに社長になる。元は弁護士。仙台市出身。

*1:どうしんまちどおり。仙台城下の町丁命名の基本は侍は丁、町人は町のはずなので同心なのに町というのは変な気がするが。