餅は餅屋

このフレーズについては以前拙blogコメント欄でちょっと問い詰めたことがあるのですが、あんまり腑に落ちていません。一度は私が忌み嫌っているアナウンサーが選挙に出ることに関して、一度はマスコミ以外の業種が放送局の経営をすることに関してだったと記憶しているのですが、はてなブログではコメント欄の検索ができないのでいつのことだったかはっきり言えません。
このフレーズをまた持ち出そうと思ったのは、このところの放送をめぐる話題からです。

重要な株主変更と今後の方針について | インフォメーション 一覧 | LuckyFM 茨城放送
茨城放送筆頭株主朝日新聞社だったのですが、グロービス経営大学院という学校を運営し、bjリーグ2部の茨城ロボッツのオーナーでもある堀義人氏が筆頭株主になることが発表されました。朝日新聞と日刊スポーツの全持ち株を堀氏の会社「有限会社水戸茨城イニシアティブ」が譲り受け、茨城県が持っている株式の過半数茨城ロボッツの運営会社が譲り受けます。ただ、堀氏のブログによると『来年初頭を目処に、堀の個人保有分は株式会社茨城ロボッツ・スポーツエンターテインメントに売却する予定です』とあり、茨城ロボッツの運営会社が茨城放送の親会社になることになるようです。また、12月13日に臨時株主総会が開かれ、朝日新聞出身の取締役と監査役各1名が退任し、取締役(非常勤)に堀氏、監査役(非常勤)に茨城ロボッツの運営会社の山谷拓志代表が就きました。
茨城放送の株式を取得、地方発メディアカンパニーの魁モデルを創る | GLOBIS 知見録
堀氏は水戸の出身で、水戸の町の活性化をと考え茨城ロボッツの経営に参画し、茨城の発信力強化のためにテレビ局を作りたいということでその足掛かりに茨城放送の経営に参画することにしたようです。
経営のプロと言ってもよいでしょうし熱意もあるようですから、やりたいようにやらせてみればいいと私は思うんです。それが上手くいくか行かないかなんてわからないけど、これまで漫然ととは言いませんが朝日新聞の人事異動で茨城放送に天下ってきて放送局を運営してきた人たちとは熱量が違うわけですから、何か変わるところがあるでしょう。
これまで放送局をやってきた人たちにこれからの放送がどうなるか分からないわけですから、餅で例えれば餅屋さんがこれまでどおりに餅をつけるかわからないということでしょう。だったらおいしく食べられるかどうかは置いといて新しい餅をついてみたい人にさせてみればいいじゃん。
ただ、茨城県に県域テレビ局を設置できるかどうかは総務省に陳情すればよいという問題ではなく政治的なものなのでしょうから上手くいくかどうかは分かりません。私は現行の47都道府県制が未来永劫このまま続くのかを疑問に思っています。「ちばらき」と称される県南の東京のベットタウン化した地域に住んでいる人たちがそれ以外の茨城県の地域の人たちと同じ向きを向いているのかどうか私には分かりませんし、もし全く違う向きを向いているのであれば同じ県である必要は無いから別の県になるべきだと私は思うので。もちろん「いばらき」と「ちばらき」の2県をサービスエリアとするテレビ局があっても何ら問題はないとも私は思います。
余談をいくつか。
茨城放送は一時期番組を作る茨城放送と電波を出す機能を受け持つIBSという2社に分割していた時期がありました。総務省がどういう意図をもって番組制作と送信の分離を提唱したのか私にはいまだに理解できていないのですが、その提案に唯一乗っかった茨城放送が数年で分社を止めて再統一したことから、これと言った利点は無かったのだろうと推測します。
それから、かつて「つくばテレビ」という会社があってだな…パーフェクTVの371ch「kitまんぞくクラブ」、なつかしいなぁ。いまはスカパー!プレミアムでアダルト番組の「エンタ!959」、アイドル番組の「アイドル専門チャンネルPigoo」という2つのチャンネルをやっています。もはや茨城とは何の関係も無くなっています。

  • NHK会長交代

NHK新会長は前田晃伸氏 みずほFG名誉顧問 - 芸能 : 日刊スポーツ

NHK経営委員会の石原進委員長(74)が9日、都内で会見を行い、来年1月24日に任期満了を迎えるNHK上田良一会長(70)の後任に、みずほフィナンシャルグループ名誉顧問の前田晃伸氏(74)に決まったと発表した。

というわけで、NHKの会長はNHK経営委員会が決めます。つまり会長より経営委員会の方が偉いわけですね。Wikipediaによれば籾井勝人氏をNHK会長に推薦したのは石原氏だったみたいです。なお、石原氏も12月10日に任期満了で経営委員を退任しました。現在は阪神高速道路(株)取締役会長の森下俊三氏が委員長職務代行者を務めています。
会長も経営委員も任期は3年です。経営委員は定数12で国会の同意に基づき内閣総理大臣が任命します。安倍首相が作家の百田尚樹さんを任命した時は話題になりましたね。現会長の上田良一氏は経営委員の出身なのですが、彼は非常勤ではなく常勤(のちに監査委員も兼任)として招かれたため、前職である三菱商事副社長を退任しなければならず、Wikipediaによれば報酬が激減したそうです。NHKは受信料をふんだくったうえに高給取りだと非難を浴びますが、もっと高い給料をもらっている財界人を招くとこういうことも起きます。そういえば籾井氏も会長になる前は日本ユニシスの社長でした(その前は三井物産の副社長だったそうです)。NHK会長も常勤職なので籾井氏は日本ユニシスの社長を辞めています。NHK会長は一時期NHK生え抜きの方が続いたのですが不祥事が相次いだこともあり2008年以降福地茂雄氏(前職はアサヒビール相談役 )、松本正之氏(前職はJR東海副会長)、籾井氏、上田氏と財界からの招聘が続いていて次期会長の前田氏はみずほフィナンシャルグループ出身というわけです。副会長や専務理事などはNHK生え抜きの職員が務めています。
NHKは国営放送ではなく公共放送なので、現実的な可能性は置いといて、国民の誰もが経営委員としてNHKの経営に参画することができる可能性があり、会長に指名される可能性があります。まぁ権力者とのコネがあるか財界の偉い地位にいないと無理だろうけどね。安倍長期政権が続いてしまっているのでアベガーと非難する人が出てくるのも分かりますが、将来的に世の中が変わって非自民・反自民な政党が長期政権を執ることが万が一でもあれば当然NHKの経営委員や会長も非自民・反自民な人脈が増えてくることもあるでしょう。そうしたければ選挙で一歩ずつ変えていくことです。でなければ総務官僚となってNHK生殺与奪の権利を握れる立場に立つしかありません。
折も折、NHKがお手本の一つにしているイギリスBBCに関してこんなニュースが報じられました。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019121100204
イギリス下院の総選挙は保守党が歴史的圧勝となったようで、EUからの離脱が着実に進むことになります。BBCNHKと違ってCMを入れられるはずですが、はてさてこれからどうなりますことやら。

  • テレ朝HD、東映を持ち分法適用会社に

下記リンクの日本経済新聞のサイトの記事によりますと、『議決権比率を13%から17.77%に高めた。取得額は100億円を超える規模とみられる。』とのことです。
テレ朝HD、東映を持ち分法適用会社に: 日本経済新聞
持ち分法適用会社について、『対象会社への議決権比率が20%以上の場合に持ち分法適用関連会社とするが、議決権比率が15%以上20%未満でも、その経営に重要な影響を与えている場合は持ち分法関連会社となる。』と説明されています。『テレビ朝日HDの早河洋会長兼最高経営責任者(CEO)は東映社外取締役を務めている』ため、経営に重要な影響を与えている場合に当たるわけですね。
ところで、コメント欄にもコメントが寄せられていますが、東映テレビ朝日の設立母体の一つです。「相棒」などの水9枠や「科捜研の女」などの木8枠は長年東映が制作し続けています。かつては「暴れん坊将軍」など時代劇枠も持っていました。ニチアサキッズタイム、じゃなかった「スーパーヒーロータイム」(仮面ライダーシリーズとスーパー戦隊シリーズ)も東映の制作です。この真裏のフジテレビ系の日曜朝のアニメ枠や直前のプリキュアシリーズは東映アニメーションの制作ですが、これはちょっと脇に置いておきます。

えっ、テレビ朝日って朝日新聞が作ったんじゃないの?
テレビ朝日朝日新聞の子会社ですが、そのもととなったテレビ局に朝日新聞はさほど関わっていません。Wikipediaで「テレビ朝日」を引くと、その『略歴』としてこんな記述があります。

1957年、テレビ業界への進出をうかがっていた東映、テレビ兼営をねらった日本短波放送(現:日経ラジオ社)およびその親会社である日本経済新聞社、そして旺文社など出版業界・教育関係者の三者が中心となり、教育番組専門局として株式会社日本教育テレビを設立。免許交付の条件は教育番組を50パーセント以上、教養番組を30パーセント以上放送するというものであり、営利を目的とした教育専門局は世界でも珍しかった。

では何故にそんな形態の放送局を作ったのか。そうしないと免許が下りなかったから。
と言ったら言い過ぎだろうか。いやそれは誤解だ表面的な理解でしかないとお叱りを受けるかもしれません。1957年は2月に当時の有名な評論家、大宅壮一氏によって「一億総白痴化」が提唱されたのであります。テレビを見るとバカになるのだ。だからテレビは教育的でなければならないのです。5月、それまで3,4,5,6,7,8の6つのチャンネルしか使えなかったテレビに、1から11までの11チャンネルが使えるようになりました(1chと2ch、それと12chは米軍のものだったそうで、当時東京のNHKは1chではなく3chだったそうです)。そこで6月、東京ではNHK(当時は3ch)、日本テレビ放送網(4ch)、ラジオ東京(KRT、現在のTBSテレビ、6ch)に加えて3局増やそう、ただしうち2つは教育専門局ということになりました。これによって免許を得たのがNHK(教育テレビ、とりあえず1chとして開局しのちに総合テレビ3chと交換)、富士テレビジョン(フジテレビ、8ch)、そして日本教育テレビ(10ch)というわけです。フジテレビは一般局、NHK教育日本教育テレビは教育専門局として1959年に相次いで開局します。日本科学技術振興財団に教育専門局の免許が出て東京12チャンネルができるのはずっと後の1964年のことです。

あれこれググっていてこんな論文のpdfが引っ掛かったのでリンクを貼っておきます。何でドメインがukなのかよくわかりませんが。
・『免許発行の政治学― 教育放送局免許は教育的理由で発行されたのか ―』福田直記
 https://core.ac.uk/download/pdf/144446265.pdf
この中に、「東京教育テレビ」に一本化されることになる申請者の一覧があります。東映、旺文社、日本経済新聞のほかに様々な映画会社の名前が入っています。当時あった東京タイムスという新聞社の名前はありますが朝日新聞の名前はありません。当時の郵政大臣は拙blogでは四国放送四国新聞西日本放送を家業とする一族としておなじみ、平井太郎氏。平井氏はこの論文によれば(フジテレビジョンの社史を引用する形ですが)東映大川博氏が申請した「国際テレビ放送」に教育専門局ではなく一般局として免許を与えたかったみたいです。何でなんでしょうね。しかし、富士テレビジョン(のちのフジテレビ)も一般局として申請しています。東映に放送免許を与えるには教育専門局としての免許にならざるを得なかったのでしょう。東京教育テレビ(のちの日本教育テレビ)、富士テレビジョン、大関西テレビ放送(のちの関西テレビ)に予備免許を交付して平井氏は郵政大臣を退任します(石橋湛山内閣をまるっと引き継いだ岸信介内閣の内閣改造のためで、後任の郵政大臣は大量免許でマスコミを手なずけることとなる、あの田中角栄氏です)。

では日本教育テレビ朝日新聞が忍び込むのはいつなのか。Wikipediaテレビ朝日の略歴に話を戻します。

開局前に、東映朝日新聞社と合弁して朝日テレビニュース社を設立して、NETテレビは開局以来同社が制作したニュースだけを放送していた。しかし1966年に東映の持株の半分を朝日新聞社が譲受して以降、資本面や経営面でも朝日新聞社との結びつきが強化され、事実上朝日新聞社の傘下に入った。

ここで言う朝日テレビニュース社は現在のテレビ朝日映像(ViViA)です。
1966年に何があったのでしょう。Wikipedia大川博氏の来歴を眺めてみます。もともとは鉄道省の官僚で東急の五島慶太氏にヘッドハンティングされ東急に招かれたのですが、経営が苦しかった東映の立て直しを頼まれます。東映東急グループだったのですね。東映の経営は見事に立ち直るのですが、その間に五島慶太氏の後を継いだ五島昇氏や後に東映の会長になる岡田茂氏との間がぎくしゃくして来るようです。それはそれとしてテレビ朝日に関係ある部分を抜き出すと、

1965年NETテレビの経営を巡り赤尾好夫旺文社社長と対立。赤尾が日本経済新聞社円城寺次郎と結託すると、大川も朝日新聞社の広岡知男と手を握り、同社に東映所有のNETテレビ持株の半分を譲渡。東映・朝日陣営対旺文社・日経陣営のNETテレビ経営権争奪戦に発展するが、東映・朝日・旺文社各社共通のメインバンクである住友銀行の斡旋で和解し、同行OBの山内直元を社長に据えることで決着した。この一件以降NETテレビの事実上の親会社は東映から朝日新聞社に代わり、これが現在の総合局・テレビ朝日およびテレビ朝日ネットワークの形成に繋がる。

日本教育テレビは1957年に大川会長・赤尾社長でスタートし、1960年11月からは大川社長・赤尾会長に入れ替わります。1964年11月になると赤尾社長に戻り、大川氏は? Wikipediaによるとここからしばらく会長不在になるようです。ここがいざこざがあった時期なのでしょうね。いざこざの原因は何なのか。ググっていてこんなものを見つけました。「るいネット」というところに朝日新聞の悪行について2007年に投稿されたものです。よく残ってたなぁ。「新聞社・破綻したビジネスモデル」(河内孝著・新潮新書)の引用として述べられています。だったらこの新書を借りてきて読めばよいのですが手抜きで済みません。では引用の引用。

新聞、テレビの一体化と世論工作



朝日新聞がNET(後のテレビ朝日)を支配できたのは、偶然のような幸運と、その後の必死な政治工作の成果でした。


57年11月、資本金12億円で日本教育テレビが発足したときの筆頭株主は、テレビ進出で遅れをとった日経新聞でした。保有株式は、子会社の日本短波と一緒に49万9000株。続いて東映20万株、旺文社11万4000株。朝日新聞は自社では4万株、九州朝日放送の10万株を足しても、支配権を得ることにはほど遠い存在だったのです。


ところが65年、二期四年ごとに東映と旺文社で交代していた社長人事を赤尾好夫旺文社社長が守らなかったために、大川博東映社長との間で抗争が起きます。大川は、問題を同郷の田中角栄に持ち込みます。


朝日新聞もOBの橋本登美三郎自民党総務会長や、モスクワ・オリンピックの放映権独占で知られる政治部OBの三浦甲子二(キネジ)らが奔走します。田中は65~66年と68年~71年まで自民党幹事長。首相の座を目前に、脂が乗り切っていました。朝日と密接に連絡をとる一方、大川はNET株の買占めを進め、その半数を朝日に譲渡。抗争は、旺文社・日経対東映・朝日の構図で泥仕合の様相を見せながら、双方とも過半数を握れずにらみ合いが続きます。最近のTBS対楽天の争いと大して違いません。


このとき田中は、もう一つの在京局の経営状態を注視していました。開局5年で52億円の赤字を出し、資本超過に陥った東京12チャンネルです。同局は、全国ネットワーク化の流れにも乗れず、科学技術教育番組を60%、教育・教養番組を20%放送しなくてはいけない、という足かせのため、視聴率競争に加わることすらできずにいたのです。同局の発起人だった植村甲午郎、五島昇、小坂徳三郎ら財界人も困りはてて田中に助けをもとめました。


68年秋、満を持した田中の裁定構想がまとまります。「12チャンネルは財団から株式会社にした上で、NETとともに一般局とする(教育、教養番組時間枠の規制を外す)。朝日が出資した12チャンネルの財団債と日経の所有するNET株を交換し、NET=朝日、12チャンネル=日経で再編成する」。


(途中省略)



日経は自らと日本短波放送が保有する株式を朝日と旺文社に折半譲渡(正式契約は74年2月)。これにより朝日のNET株保有比率が30%を超え、念願の支配権を確立しました。


73年11月1日、電波審議会はNETと東京12チャンネルの一般局移行を決定しました。

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これによると朝日新聞もわずかながらNETに出資していたようです。アッ忘れてた、NETはネットではなく日本教育テレビの英字略称です。教育専門局という足かせを嫌ってか日本教育テレビは1960年12月にNETテレビと名乗り始めます。しつこいですがネットテレビではありません、エヌイーティーテレビです。
この元ネタとなる新書の著者の河内さんは毎日新聞の幹部だった方なので業界の暗部も知っているらしいです。たぶんこの記述も信じてよいのでしょう。というわけでいざこざの原因は大川氏と赤尾氏の間で仲良く変わりばんこに社長をしましょうねという約束が赤尾氏によって破られた事のようです。このときなんで大川氏は朝日新聞と組むことになったのでしょう。
田中角栄さんはテレビ免許は新聞社に下ろすものという持論を持っていたと何かで読んだ覚えがあります。現在日本の地上波テレビネットワークが全国紙の数と同じになってるのは角栄さんの功績です。いや功績と言ってよいのか・・・これは深入りはよしましょう。テレビ局の数が増えてきたことで(増やしたのは郵政大臣だった時の角栄さんだが)テレビ局の系列と新聞社の系列をそろえようという流れが生まれます。たぶんマスコミを手なずけるのに都合がよかったのでしょうね。大川氏と同郷だった角栄さんは朝日新聞にNETテレビをあっせんすることで結果的には朝日にとって自分のテレビ局が手に入るという最高の結果が得られたことになります。
では大川氏は? 「渋沢社史データベース」のサイトで読むことができる「全国朝日放送(株)『テレビ朝日社史 : ファミリー視聴の25年』(1984.02)」の年表によりますと、1964年11月大川氏の辞任を受けての定時株主総会・取締役会では日経出身者が副社長と常務に就きます。これが1965年3月の臨時株主総会・取締役会では副社長に朝日から横田武夫氏が入ります(1970年3月に山内氏が亡くなると1970年4月に社長になります。ここから朝日新聞出身の社長が連続することになります)。大川氏の名前も取締役として復活します。広岡知男、三浦甲子二の名前もあります。この2人のWikipediaを読むと新聞社の社員なんだか政治家なんだか分かんなくなります。恐ろしいことです。大川氏は1971年8月に亡くなるまで取締役。赤尾氏は1985年9月に亡くなるまで会長であり続けました。
あれっ赤尾氏って日経と組んでたんじゃなかったっけ。1973年2月に日経出身の武藤直嘉常務が辞任、1974年4月に日経社長の圓城寺次郎取締役が辞任。これでNETと日経は手が切れたことになるのかな。日経は東京12チャンネルを押し付けられることになります。

ただし、これには別の見方もあるようで、NHK文研の論文なのかな、
・『教育テレビ放送の50年(古田尚輝)』
 https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2009/pdf/005.pdf
によりますと、

経営方針をめぐって,娯楽を優先する東映大川博社長と教育を重視する旺文社の赤尾好夫社長との確執が絶えず,両者は互いに会長と社長の交代劇を繰り返して反目した。この路線の対立は,大川社長が本業の映画の建て直しのために辞任した1964年11月まで続いたという。

とあります。この論文では設立の経緯についても

東映はテレビ放送事業への進出に積極的で,「おのおのの特性を活用して,映画とテレビ事業の一元的経営を企図した」。しかし,東映が構想したテレビ放送事業は映画の延長としてのテレビ放送であって,娯楽色の濃いものであった。

9社の調整は二転三転した。まず東映系の国際テレビ放送と日本経済新聞系の日本短波放送が歩み寄り,その後,映画産業系の4社と日本短波放送と結託した東京テレビジョンがこれに加わった。しかし,日本教育放送は,教育専門局は事業目的や内容の“純一性”を保つ必要があると主張し,6月下旬を回答期限とした郵政省に質問書を出して不満を表明した。また,国民テレビも教育・教養放送を標榜して,容易に合流しなかった。郵政省は日本教育放送を根気強く説得し,当初の回答期限を過ぎた7月初めにようやく国民テレビも合体して「東京教育テレビ」という名称で一本化が実現した。

とあり、赤尾氏はあくまで教育専門局としてやりたいという理想を持って放送事業に臨んでいたようです。免許が2枚しかなくそのうち1枚は教育専門局と決まっていたからとはいえ、東映と旺文社を一本化させなければならなかったことにそもそもの無理があったのかもしれません。


ちょっと話が大きくなりすぎてテーマが何だったか分からなくなってきてしまいました。
テレビ創成期のテレビ局の設立母体は新聞社と映画会社だと言ってよいかと思います。日本教育テレビには旺文社もいますが日経と当時の映画大手6社のうち東映、新東宝、日活が、フジテレビは文化放送ニッポン放送が主体ですが東宝、松竹、大映が関わっています。なお、TBSの当初の姿であるラジオ東京は東京で最初の民放ラジオだったので朝日、毎日、読売の3新聞と電通が合同して設立されました。言う間でも無く日本テレビは読売新聞です。
よって餅をつき始めたのは新聞社と映画会社ということになります。そのうちテレビ局は自分で餅がつけるようになりました。映画の黄金時代は過ぎ映画会社は少し脇にそれます。新聞社は俺が親だと大きい顔をしています。人事異動を見ていると全国の系列テレビ局が新聞社の天下り先になっているようにも見受けられます。
しかしインターネットが普及して放送局じゃなくても個人であっても動画を撮影し編集し配信できるようになり、インターネットにお金が回るようになりました。誰にでも手軽に餅がつけるようになったのです。そうすればプロでも下手な人、アマチュアでも上手な人、放送局を営んでいなくても稼げる人が出てくるのは当然のことです。
今回話の枕に置いたのはラジオ局の茨城放送の話でしたが、おっと、これまでの茨城放送筆頭株主朝日新聞でしたね、放送局をやりたい人がいるのなら、いまある放送局の経営陣に現状維持以外のビジョンが描けていないのなら、旧経営陣は経営を手放し新しい人にやらせてみればいいと私は思います。新しい人が失敗したらそれ見たことかと旧経営陣が戻ればいいし、新しい人が上手くいったならそのビジネスモデルをまねて新しい放送局を作ってまた儲ければいいじゃない。
もうすぐお正月。来年もおいしいお餅が食べたいです。